DA Y1
丸十パンでポテトパンを買った。財布に入っていた小銭の全部を出したらちょうどだった(170円)。ポテトサラダを挟んだパンだ。
70種類以上ある惣菜パンを並べたショーケース越しに注文する。「そのままでいいですか?」とトレーにのせられたパンを受け取りお金を渡す。支払いはもちろん現金のみ。SuicaもPayPayも使えない。
いつ来ても同じ。いまの倍の長さがあったころの商店街の入口らへんに店を構えていたときも、ボーノの吹き抜けになった通路の下で
ひっそりと営業していたときも同じやりとりをしていた。子供のころと同じ。歳をとらないおばちゃんが90度の「く」の字になったショーケースの内側にいる。
新規開店した店の中に小学生の僕がデザインをした手書きのポスターがいまも貼られている。「え顔いっぱい 丸十パン! おすすめ商品ベスト3」というタイトルの最初の2文字が何度見ても「え彦頁」にしか見えない。話題が欲しくて商店街の途中で立ったままおとうさんにDMしたら「湘爆の江口洋介と同じやな」と返ってきた。
江口洋介(えぐちようすけ)なら知っている。映画の『るろうに剣心』で元新選組三番隊組長・斎藤一(さいとうはじめ)を演じている俳優のひとだ。なにが「同じやな」なのか。ウェイト・ア・ミニット。立ったまま考えてもわからなかった。
家にお金を入れてくれない。たまに会ってもお小遣いもくれない。自分のしたいことしかしない。したくないことは絶対にしない。家出中のおとうさんに答えを聞くのは癪だ。
「ラーメン二郎駐輪場」と書かれた看板が立つビルの隙間に入った。「輪」だけが赤い文字で書かれた黄色い看板の前で検索した。
「湘爆」が『湘南爆走族』という漫画であるのはすぐにわかった。昭和の『東京リベンジャーズ』みたいな感じか。いや、違うかも。東京卍會と一緒にファンアートを描いているひとがいるにはいた。
江口洋介はその漫画が映画化されたとき暴走族のリーダーである江口洋介を演じた。デビューした映画やドラマの役名をそのまま芸名にする。なくはないパターンだ。『仮面ライダークウガ』で主演を務めたオダギリジョーは役名ではなく本名だ。「小田切譲」と書くのだとついでに知ってしまった。けどやっぱりなにが「同じやな」なのかがわからない。
忘れることにした。
団地の中の広場みたいな公園でポテトパンを食べた。築30年。僕が生まれるずっと前にこの団地は建て替えられた。「プラザシティ」なんて名前になる前からおかあさんはおばあちゃんと一緒にこの団地で暮らしていた。
生まれたときからずっと僕の現住所である4号棟の向こうから飛んできたムクドリの集団が芝生の上でぴょんぴょんし始めた。ベンチのすぐ横に3つ並んだ鉄棒で白いジャージの上下を着たおじいさんが斜め懸垂をしていた。アイ・ヴ・ネヴァー・シーン。見たことがないおじいさんだった。
僕はというと、マスクをしたまま食べる方法を考えているうちにポテトパンを全部食べてしまっていた。飲み忘れていたBOSSのカフェラテのペットボトルを黒いリュックの中にしまった。
1分もたってなかったと思う。「白ジャージのおじいさん」は焚き火を消したあとの煙みたいに風に流れて消えていた。
ボーノはbonoでイタリア語で「良い」という意味だ。駅の西側に鳴り物入りでできてからもうすぐ10年がたとうとしている。北と南に2棟ある商業施設の上にタワーマンションがある大型複合施設。僕が見る限りボーノはずっとあたらしいままだ。ずっと転校生みたいな顔をしている。
北海道日本ハムファイターズに清宮幸太郎(きよみやこうたろう)という選手がいる。BIGBOSSこと新庄剛志(しんじょうつよし)監督のことが気になり、きのうたまたまテレビで観てたらホームランを打った。ぴょんぴょん跳ねるような足取りで1周してホームベースを踏んだ。そしたらまた次の打席でも打った。調べてみたらドラフト1位の鳴り物入りで入団して以来毎年のように活躍するのが期待されている選手だった。
似ていると思った。おっとりしているというか、のんびりしているというか。肌がつやつやで、つるっとしているところも。歳をとらなそうな感じがするのも同じだ。
清宮はボーノでボーノは清宮だ。ネットでそう書いたら「ボーノって?」とよくリプしてくれる高校生のレイヤーの子がリプしてくれた。「ボーノ」でググれば1番上に出るはずだけど言わなかった。「若いひと」たちのあいだではもはやggrksは死語らしい。
ボーノの中でトイレを済ませてから吹き抜けになった通路のベンチで日曜日の午後を過ごした。どこで過ごそうが、なにをして過ごそうが同じだ。無職の僕にはすることがない。
携帯ショップの店員さん(女性・20代)と何度か目が合った。鳴り物入りでできたショッピングモールなのに、通路の両側は全部店舗なのに、日曜日なのに通行人はまばらだ。ホームランを打ったあとの清宮幸太郎のような軽やかな足取りで稼ぎ時が過ぎていく。
さっき「バイバイくん」がバイバイしてくれたからたぶんきょうは良い日だ。お店で働くひとが大好きな「バイバイくん」は駅ナカのスタバの店員さんたちにも手を振る。みどりの窓口の駅員さんにも手を振る。丸十パンのおばちゃんにも手を振る。いつもバッグを斜めがけにしている。30代なかばくらいのおじさんだ。
ずっと同じベンチに腰掛けている僕もなにかを売っていると思われたのかもしれない。僕はiPadで駅の真上に建つ白いホテルとそのうしろの、うしろにあるとは思えないくらい充実した空のスケッチをしていた。線の太さや濃淡を細かく調節できる「傾き検知機能」付きのタッチペンで、わりと気に入っている。
5時になった。スマホのアプリできょうの分の料金を送信した(神奈川県の最低時給[1040円]を8時間分で8320円)。これのどこが「最低」なのか。人件費とかマジで意味がわからん。経営者にだけはなれないし、なれと言われてもお断りすることにする。
疲れた。
ボーノの吹き抜けの通路のすき家で晩ご飯を食べた(うな牛・ごはん大盛:990円/PayPayで支払い)。スマホで今年の夏用のミニ扇風機を選んでいるとおとうさんからDMが届いた。
「ミエロシ羊介」
帰りがけ。Uberを使わずに夜食を手に入れ節約する大作戦でファミマの近くの海鮮丼屋(大漁丼家)に寄った(サーモンいくら丼[600円]を特盛り(シャリ・ネタ大盛[350円])で950円/PayPayで支払い)。
最近。というかきのうからSDGs[Sustainable Development Goals]に目覚めたのでビニール袋はお断りした。壁に貼られたメニューの隣りの小窓に両手を伸ばした。
あ。
声が出た。わかった。
びっくりした店員さんがどんぶりを落としそうになった。僕は受けとったときの両手のままどんぶりを抱えてぴょんぴょん走って帰った。
夜。清宮幸太郎はノーアウト満塁のチャンスに見逃し三振をした。秒で飛んで行って抱きしめてあげたい。やさしい気持ちになった。
そのあとツーベースヒットを打った。ドヤ顔の清宮幸太郎を両手を挙げて祝福した。仕事(病院)から帰ってきたおかあさんが「どうしたの急に野球なんか見て。頭でもおかしくなった?」と目をまるくした。
DA Y2
大学の3号館でからあげカレーを食べた(390円)。いつ来てもほんのり薄暗い。昭和の観光地のリゾートホテルみたいなラウンジだ。
高1の秋に中退するまでは毎日のようにここでなにかを食べたり読んだりしていた。エスカレーター式の学校だから辞めてなければここで普通に大学生をしていたかもしれない。返却しそびれた学生証がいまも財布の中に入っている。
当時は自転車で通っていた。きょうは歩きで来た。最近。というかきのうから持続可能な生活[Sustainable Living]をすることに決めたのだ。
アクリルのパーテーションで使い勝手が悪くなったテーブルで漫画を読んだ。『MONSTER』という20世紀の漫画だ。
アニメで気に入り近所のブックオフで全巻買いした。というか持ってる本のほとんど全部がそうだ。裏表紙のバーコードの上に「¥110」とか「¥108」と書かれた値札が貼られている。
推しは断然ルンゲ警部。なのにそのルンゲ警部が出てこない「いやな仕事」というエピソードが好きで14巻と15巻をいつも持ち歩いている。ドクター・テンマの元婚約者でアル中の女、エヴァ・ハイネマンと殺し屋のマルティンの話だ。
「赤ん坊」というマフィアのボスの命令でマルティンはエヴァのボディ・ガードをすることになった。高慢で酒癖の悪いエヴァの第一印象はもちろん最悪だった。だから女がらみの仕事はいやなんだと彼はこころの中でつぶやいた。
金持ちが集まるパーティに行くとかでショッピングに付き合わされた。本当に「いやな仕事」だ。なにをしたのかされたのかわからない仕事を終えたエヴァは「どこでもいいから早くここから連れて出て!!」と叫んだ。
バーに行った。「ここも違う!! あそこも違う!! どこへ行っても、私のいる場所なんてない!!」とエヴァは泣いた。「この仕事が終わったら、きっと殺されるわ」
守ってやろうと思った。ふいにそう思った。また悪い癖が出た。女に関わるとろくなことがないとわかっているのに。
エヴァを殺せとマフィアのボスのボスに命じられた。彼女を殺す代わりに逃がすことにした。別れ際「フランクフルト中央駅で待ってる」とエヴァは言った。「一緒に逃げよう」
銃で3人殺した。いや、4人殺した。タバコを吸った。生き延びたかと思った。
5人目の男が震えながら両手で銃を構えていた。引き金を引いた。弾切れだった。腹を撃たれた。うしろに吹っ飛んだ。
行きつけの食堂の店主に助けを求めた。車でドクター・テンマのところまで連れて行ってもらった。
でもダメだった。まにあわなかった。「死ぬな。駅に行かなくちゃ。死ぬな」とどこまでお人好しなのか。ドクター・テンマは叫んだ。なかば閉じた目でマルティンは言った。「俺は幸せだ。エヴァが俺を、フランクフルト中央駅で」
待ってる。
何度読んでも目頭が熱くなる。目頭って本当に熱くなることを僕はこの漫画のこのエピソードを読んで知った。泣く、というより熱くなる。いまにも泣きそうになる時間が読んだあともずっとつづいている。
コロナが一段落して学生たちが大学に戻ってきた。混む前に3号館のラウンジを出た。
モミノキの大木の木陰にあるベンチに座った。ベンチではなくコンクリートの花壇のへりなのかもしれない。目の前は運動場で、うしろは校舎と校舎の継ぎ目。風の通り道だ。
リュックの中からiPadを取り出し膝にのせた。ネットで繋がった高校時代の同級生(いまは大学1年生)の代わりに書かなければならない文章を書いた。
ていうかそれがこれだ。僕はいまこれを書いている。
創作実習という選択科目で「きょうしたことを書く」のがオンラインの課題だ。3日分書いた中から1日を選んでもらうつもりだ。
別に脅迫されてるわけではなかった。お金をもらう約束をしているわけでもない。話の流れでなんとなく引き受けた。その同級生の顔を思い出せない。ていうか、たぶん知らない。記憶にござらん。
いまもたぶんその同級生はこの大学のどこかにいる。さっきDMが届いた。「3号館にいたよね?」
「カレーを食べた」
「知ってる。てか芽以の隣りのテーブルにいた」
マジか。自分以外の女子は全員普通で区別がつかない僕は最初から諦めている。ともだちになるためには最低限必要なこと。身につけなければならないことがあることくらい知っている。
疲れた。
なにか適当なことを書いては消してをしばらく繰り返した。書いたけど消したから、いまここには書かれていない。書いたは書いたけど書いたことにはならない。まるで僕の毎日みたいだ。
清宮幸太郎。きょうは打つかな。ホームランを打つかな。見逃し三振をしてまたBIGBOSSこと新庄剛志監督に叱られるのかな。
打つかもしれないと思った。ふいにそう思った。また悪い癖が出た。清宮幸太郎に関わるとろくなことがないとわかっているのに。打ったら打ったで次にまたホームランを打つまで待たされるのに。待つのが仕事みたいになるのに。気分はすっかりマルティンだった。
とりあえずきのう書いた文章を顔を知らない元同級生に送った。「さんきゅー」と顔がきゅーってなった猫のスタンプがすぐに送られてきた。
「もしかしていま見てる?」
「いまトイレ」
連打すると焼き鳥(ねぎま)になるスタンプを1個だけ送った。ドクター・マーチンのひもを結び直した。iPadをリュックにしまった。だからここから先は家に帰ってから書いたものだ。
帰りがけ。5時になる前にきょうの分の料金を送信した(8320円)。「最低時給さん」が近くにいるかもしれないと思ったからだ。
いるはずなのだ。近くにいてくれなければ困るのだ。見てくれていなければ高い「最低時給」を支払っている意味がないのだ。
「あのー」
声を掛けてみた。隣りのモミノキの大木(5人兄弟の次男)のうしろに誰かがすっと姿を隠した。ような気がした。
「あのー」ともう一度。今度はゴジラが火を噴くみたいに首をまわしながら声を伸ばした。
うしろで鯛焼きの移動販売をしていたおねえさん(20代・頭に黄色いバンダナ)が小型のワゴン車の中で目をぱちくりぱちくりしていた。「外はサクサク! 中はふんわり!」と書かれた幟が車の横で風に揺れていた。
黒いシャツを急いで羽織った。黒いリュックをおなかに抱えてワゴン車の前を走り抜けた。走ったまま右に曲がった。
正門へつづくイチョウ並木の木立のうしろへ隠れた。顔をなるべく出さないように気をつけながらさっきまで自分がいた場所を眺めた。
まん中のモミノキの大木(5人兄弟の三男)の木陰に横たわるコンクリートの花壇のへりに黒いなにかが置かれていた。ように見えた。
僕はその「黒いなにか」を見ながら歩いた。まばたきをせずに腰から下だけ義体化したみたいに動かした(『攻殻機動隊 SAC_2045』の話)。
手元を見ずにおなかに抱えていたリュックを背負った。リュックに巻き込まれた黒いシャツを脇の下から引っ張り出した。そのあいだも「黒いなにか」から目を離さずにいた。
あ。
銃だった。
見なくてもわかった。同じだった。偽物だけど本物だった。
僕は背中から黒いリュックを降ろした。白地に緑色の文字でMONSTERと書かれた15巻を開く前から僕は見ていた。見る前から見ていた。
マフィアのボスが差し向けた追っ手の男たちを3人殺した。いや、4人殺した。タバコを吸った。
これでエヴァと一緒に逃げられる。フランクフルト中央駅に行ける。そう思った矢先に現れた5人目の男に向けた銃は弾切れだった。「やっぱりさえねえな、俺は」とつぶやいた。マルティンの銃を、その綺麗な横顔が描かれた漫画のひとコマを僕は見ていた。
DA Y3
駅ナカのスタバでカフェミストのショートサイズをスマホで注文した(405円)。視線を感じた。
僕はその視線をしばらく受け止めてから顔をあげた。顔をあげる前から誰の視線なのかわかっていた。「グラサンさん」だった。
彼はいつも黒いおおきなサングラスをしている。黒いおおきなサングラスをしてうしろにふんぞり返ってニヤニヤしている。ニヤニヤしながら誰かのことをじろじろ見ている。
サングラスをしているからじろじろ見てもわからない。バレないと思っているのは彼だけだ。彼にじろじろ見られているひとも、彼が誰かをじろじろ見ていることに気づいてしまったひとも彼が「じろじろ見ている」ことは、じろじろ見なくてもひと目見ればわかる。
気づかれると彼は音の出ない口笛を吹くみたいな顔をして目をそらす。「グラサンさん」のサングラスくらい意味のないサングラスを僕は知らない。いっそ目だけでも義体化しちゃえばいいのに(『攻殻機動隊 SAC_2045』の話)。
「グラサンさん」の視線を感じながらマスクの下からミルク入りのコーヒーを飲んだ。それがカフェミスト。フォームミルク多め。キャラメルソース追加。エキストラホットにしてもらっても無料。0円だ。スマホで注文できるモバイルオーダーでなければカスタマイズするなんて芸当、僕にはできない。
スマホというかネットがなければ僕はなにもできない。なにもする気がしない。意外とどころか頻繁に電脳をオフラインにして自閉モードで潜入しろと命じられる公安9課(草薙素子少佐のチーム)にはギャラを1億積まれても入らない(『攻殻機動隊 SAC_2045』の話)。
飲み終わるとすぐに席を立った。そのためにリュックを背負ったまま座っていた。腹巻きのついたカップとプラスチックの蓋を分けてゴミ箱に投入した。業務用のゴミは分別する必要がないと知った上での行動だ(持続可能な生活とは?)。
スマホでタッチして改札を抜けた。駅のホームへ降りる階段の近くのセブンイレブンで飲み物(BOSSのカフェラテのペットボトル)を買った(500ml:150円/PayPayで支払い)。
まもなく発車するとアナウンスされていた快速急行に乗った。ドアの脇を陣取り寄りかかるようにして立った。耳栓代わりのイヤフォンをした。黒い細身のデニムのうしろのポケットに入れていた文庫本を開いた(おとうさんがよくしていた昭和のスタイル)。
図書館の除籍本だ。学校を除籍する自分にお似合いだと思った。記念に1冊。なんとなく手にした本だった(高1の秋の話)。
山川方夫(やまかわまさお)という小説家の『愛のごとく』という短編集だ(新潮文庫)。表題作の「愛のごとく」という4つめの短篇から先に読んだ。文字が「馬鹿なんじゃないの?」と言いたくなるくらいちいさかった。色の薄いちっちゃな蟻みたいな文字が縦にびっしり並んでいた。短篇1個読み終えるのに3日かかった。
読んでみて欲しい。絶対わからないから。なんで「女」は交通事故で死んだのか。本当にただの事故なのか。わかったら教えてくれてもいいからと謎のお願いの仕方でおとうさんにお願いしたら断られた。「本を読むくらいひまがあるならその前にひますぎて俺は死んでいるはずだから読みたくても読めない」というのが(謎の)理由だった。
生まれて初めてひとりで海に来た。それ以前にひとりでどこかへ行ったこと自体なかったかもしれない。
おとうさんに何度も来いと、来ればいいじゃんと言われていた海は波がなかった。ちょっとおおきな水たまりみたいに静かだった。ミエの島が見えた。
水族館から出てきたとき、海の上の空は輝きを失くしていた。水平線から伸びあがったような白い鰯雲が、それでもまだ青さを残しているひろい空をゆっくりと動いていて、その下に、緑色の島があった(「展望台のある島」『愛のごとく』所収)。
僕はその「緑色の島」を座って見ていた。砂浜に降りる階段の上のほうだ。背中をまるめた僕のうしろにはミエの島水族館があった。こころの中で僕も一緒に手拍子をしていた。ショーとは思えないほどのんびりしたイルカ思いのショーが白い4本の柱で支えられた屋根の下のプールで行われていた。
砂浜の遊歩道をミエの島とは反対のほうへ向かって歩いた。ハンドルのお化けみたいな自転車とすれ違った。黒いウェットスーツを腰まで脱いだ濡れた髪の女と目が合う。
ハンドルのお化けみたいな自転車は1台だけではなかった。枯れた竹を並べた柵に何台も立て掛けられていた。どの自転車のチェーンもまっ赤に錆びていた。
すれ違う家族の誰かの手にはひもが握られていた。人間の数と同じくらいの犬が思い思いの時間を過ごしていた。立ち話に興じる女たちの足元で退屈そうに海を見ていた犬と目が合った。
砂浜を見おろす芝生の丘の上のベンチで午後を過ごした。空の高いところで自堕落な太陽が豪放磊落なトンビの翼に遮られた。
海に来たからには楽しまなければならない。記憶に残る夜にしなければならない。ドント・レット・ミー・ゴー。わたしをひとりにしないで。寂しがり屋の「若いひと」たちが受け狙いで焚き火でもしたのか。まん中らへんが焦げていた。泣いたみたいに鮮やかな水色のベンチには不似合い極まりない傷だった。
「誰がこんなひどいことをしたのか。ついでに調べておいてくれないか。料金は別にちゃんと払うから」
あ。
ベンチに放り出していたスマホの黒い画面に文字が浮かび上がった。
「かしこまりました。ただし、別料金は結構です。あと」
あと?
「湘爆のリーダーは江口洋助です。『介』ではありません。『助』です。俳優の江口洋介は役名をそのまま芸名にしたわけではないようです。あと」
ほんとに別料金はいらないのか?
「『愛のごとく』の『女』の交通事故はただの事故なのか。調べてみました。わかりませんでした。ただ」
山川方夫はこの小説を書いた翌年、交通事故で亡くなっています。
ネットの奥のほうに転がっていた外国の知らない映画を見始めたら最後まで観てしまった(3週間くらい前の話)。
自分から誘うのが実はもなにも苦手で誘いたいひとが誘ったわけでもないのに誘ってくれるまでこころの中で正座をして待っている。待たずに待つための言い訳みたいに息をしている。スーパーの入口で飼い主の帰りを待っている犬みたいな顔をした芸人さんが自殺したと知った日の夜だった。
高校を中退して英語の勉強を途中で放り出した僕でもなんとなくなら理解できる。それくらいシンプルで、ぶっきらぼうな英語を男も女も話していた。子供はひとりも出てこなかった。老いた人間だけが酒を飲んだりギターを弾きながら歌を歌ったり殴られたり殴ったり屋根の上で名前を知らない植物の鉢植えに水をやったりする世界線。I Hired a Contract Killer[邦題:コントラクト・キラー]という映画だった。
若いころはイケメンだったと見ればすぐに誰でもわかる。いまは冴えない役所勤めの男は首つり自殺を失敗した。台所のガスの元栓をあけっぱにしてもすぐに途切れた。男は自分を殺して欲しい。ひと知れずこの世界から抹殺して欲しいと殺し屋に依頼することにした。
僕の素行調査をして欲しい。僕の知らないところで僕のすべてを調べて欲しい。報告書にまとめたら僕にこっそり送って欲しいと探偵に依頼することを思いついた。「探偵」「格安」で検索したら「最低時給探偵」というアカウントがヒットした。
「あなたの住む街の最低時給で必要な調査を必要なだけ致します」
僕は5秒悩んでからDMした。僕が依頼することを依頼される前から知ってたみたいにすぐに契約するための書類がPDFで送られてきた。「尚、料金の支払いはPayPayでも可能です」と最後に書かれていた。PayPayで支払えと言っているのだと理解した。すぐにアプリをダウンロードした。
僕は5月の終わりの3日間を指定した。清宮幸太郎が2打席連続のホームランを打った次の日から僕のための僕の調査が始まった。
(『わたしを見つけて』5)
引用文献
浦沢直樹『MONSTER』(小学館)
山川方夫『愛のごとく』(新潮社)