記憶について(テキスト版)

序言
 当店の看板猫(ココ・18歳)の寿命がまもなく尽きようとしている。ココが退院したのは治ったからではないことは家族の誰もが知っている。ココは慢性腎臓病(腎不全)を患っている。妻(洋子・69歳)はなにも食べようとしない。ココが食べたら自分も食べると言って聞かない。気持ちがわかるゆえに無理をしてでも食べろとは言えない。それでこれを書いている。
 おそらく洋子がこれを読むのはココの寿命が尽きたあとになるだろう。ココは亡くなってもあなたの記憶の中で生きつづける。ココの亡骸を前に悲嘆に暮れる洋子を慰めようと思えば誰もがこれと似たようなことを言うだろう。
 ココはわたしたちの記憶の中で生きつづける。果たしてそうだろうか。記憶の中とはどこにあるのか。中があるなら外もあるのか。わからない。わからないことだらけなのにみななんとなくそう口にしているとしか思えない。
 よって記憶について考察することにした。81年と半年ほど生きてきたあいだに考えてきたことをこのノートに書いてみたいと思う。

2022年1月7日 純喫茶・時間(たいむ)
店主・鴨居友衛

定義1 純粋とはそれ以外のものを含まないことである。ゆえに純粋においてはそれが何であるのかは意味を持たない。それはそれである。
定義2 それが何であるのか知ることができるもの。見えるものは純粋ではない。
定義3 純粋なものは見ることのできないものである。あるいは、ただ見ることである。

定理1 記憶とは記憶以外のものを含まないことである。ゆえに記憶においてはそれが何であるのかは意味を持たない。それはそれである。
証明 いま・ここ。こことは静岡市清水区銀座にある純喫茶・時間(たいむ)のカウンターの中である。いまは2022年1月7日午後1時9分である。わたし(鴨居友衛)の左の手の中にあるそれをわたしは見ていない。1分前のわたしや1分後のわたしは見たかもしれないし見るかもしれないが、いまのいま、純粋にいまであるこの時間の中でわたしはそれを見ていない。なのでそれが何であるのか知らない。本当に知らない。忘れてしまったのか単に知らないのかも知らない。わからない。
 よっていまわたしの手の中にあるそれは記憶である。とはいえ手の感触からわかることもある。それは軽いものである。おそらく中が空洞のものである。下のほう、とはつまりそれを握っているわたしの左手の小指のほうにふたつのちいさな突起物がある。人指し指のほうにも突起物があるような気がする。ないような気もする。などとわかる分だけ記憶の純粋は失われている。なぜならわたしのただの思い込みかもしれないからである。
備考 2022年1月7日午後1時38分。わたしは実際にそれを見てみた。見てもそれが何なのかわからなかった。それはオレンジ色のちいさな置物だった。尻をつけ足を前に伸ばしている。両手を顎の下に伸ばし、体を15度くらい横に傾け、目を細めている。それはすごく嬉しそうに笑っている。
 どうやらわたしがちいさな突起物と思っていたのはそれの足だったようである。おそらくそれは動物である。両の頬から胸元にかけての毛だけが白い。実際に毛が生えているわけではないのになんとなくわたしは毛だと思った。とてもかわいらしい動物である。
 そしていまこの備考に書いたことは記憶ではない。わたしの知ってることを並べただけである。ただの思い込みかもしれない。ちなみにそれは孫(ひばり)が店に忘れていったものである。

定理2 知っているならそれは記憶ではない。知ったら知っただけほかのことを知らなくなる。記憶とはそれのすべてを記憶しているものである。
証明 例えば台所バサミ。わたしはそれが台所で使うものであることを知っている。そしてハサミであることを知っている。なのでときどきそれで手を切る。包丁で手を切ることよりも手を切ることがあきらかに多い。ハサミではなく例えば「2枚の刃物を重ねて梃子の原理で大抵のものは切断することができる道具」と呼べば手を切らなくなるかもしれない。
備考 ショーケースに並べたそれの前に洋子は「パンプキンケーキ」と書いた札を置く。わたしは「カボチャのケーキ」と書く。よくお客さんに同じものですかと聞かれる。食べればわかるとわたしは答える。そんな失礼なと洋子に叱られる。わたしはすいませんと軽く頭を下げて笑う。
 なぜかいつもこのタイミングでココは鳴く。いるのはいつもの入口にいちばん近い席である。にゃ、と短く鳴くときもあればアクビをしながら鳴くときもある。食べればわかる。いや。わかる必要はない。それはそれである。あなたがこれから食べるのは記憶なのだとココは言っているのである。

定理3 見えるものは記憶ではない。記憶は見ることのできないものである。あるいは、ただ見ることである。
証明 例えば店先のショーケース。イチゴのパフェ。クリームソーダ。ホットケーキ。ハンバーグプレート。ナポリタン。ハムとチーズのサンドイッチ。並べられたそれらは実際には食べることも飲むこともできない。食品サンプルと呼ばれるものである。一般的にそれらは見るためのものでも見ないためのものでもない。ほどほどに見てほどほどに見ない。見ないわけでも見るわけでもないことでメニューとしての役割を果たしているものである。
備考 コロナの前だから3年前の夏。そのことをしきりと気にする子ども(小学生の女の子)がいた。日曜日の昼どきで混雑していた。父親と来たその子は入口にいちばん近いカウンター席に座った。
 どうして食べられないのに並べているのかとその子は店の外のショーケースのほうを見ながら聞いた。腐ってしまうからとお決まりの答えを父親が言う。
 腐ってしまうから仕方なくあれを置いているのか。そうだと父親が答えるとその子はいまにも涙がこぼれ落ちそうな顔になった。にゃ、とふたりのうしろでココが鳴いた。
「わたしはあれが好き」
 その子はわざと父親には聞こえないくらいちいさな声で言った。その子はそれを見ていたのである。食品サンプルを食品サンプルとして見ていたのである。

考察1 ココは猫ではない。ココはココである。もしココが猫であるならほかの猫をまた飼えば済む話である。
考察2 ココはわたしの目の前(いま・ここ)にいないときも存在している。記憶として存在している。いないのにいるのである。それが記憶である。
考察3 1904年。日露戦争。1914年。第一次世界大戦。西南戦争は1877年。などとなにも見ずに答えると記憶力がいいと言われる。記憶力がいいのではない。メニューを開いて注文するのと同じである。いま・ここにはない、目には見えない答え(記憶)を見てから答えたのである。
 答えは答えである。答えはわたしがわかってもわからなくても答えである。そうでなければ答えは答えにならない。記憶も同じである。わたしが思い出そうが思い出せずにいようが記憶は記憶である。記憶は記憶として存在している。

備考1 思うところがあり先日、好きな映画俳優の名前を書き出してみた。緒形拳(『復讐するは我にあり』)。菅原文太(『トラック野郎』シリーズ)。田宮二郎(『悪名』シリーズ)。勝新太郎(『座頭市』シリーズ)。すでに亡くなっているのに亡くなっているとは思わないまま思い出していた。わたしは映画の中でしか彼らに会ったことがない。なので映画を観ればまたいつでも彼らに、彼ら自身に会うことができる。映画とは記憶に与えられた別の名前なのかもしれない。
備考2 いつだったか。明治生まれの祖父の古いアルバムを開いたことがある。見てもどのひとが祖父であるのかわからなかった。黒い厚紙のあいだからぱらぱらと落ちてきた誰が誰だかわからないモノクロの写真を誰が誰だかわからないままわたしは見ていた。それからである。わたしが記憶について考えるようになったのは。

 結論
 ココはわたしたちの記憶の中で生きつづけるのではない。わたしたちの記憶の中で、ではない。
 例えば写真の中で。ココを見たことも会ったこともないひとがタウン誌に掲載された「看板猫ココ」の写真を見る。その時間の中でココにはいつでも会うことができる。会ったことがなくても会うことができる。
 例えばこの店の中で。ココがいつも寝ていた入口にいちばん近い席の椅子の革が破れたところや、カウンター席のちょうど膝がぶつかるあたりのそこかしこにあるココが爪を研いだ跡を見る。この店そのものがココみたいなものである。

※2022年1月27日午前2時11分。当店店主・鴨居友衛は亡くなりました。生前はどの方におかれましても主人が大変お世話になりました。
 主人は大学で哲学を学んだこともあり、こういうものを書くのを好んでいました。正直わたしにはなにがなんだかわからないことだらけの文章です。インターネットにも三日坊主の日記のようなものがいくつも残っています。
 故人を偲ぶためにこのノートを公開してはというありがたいお言葉を常連様からいただきました。そうさせていただくことにしました。「わたしの手の中にあるそれ」の写真をひばりが撮ってくれました。気になる方はノートの最後のページを見てください。
 ココはいまも元気です。「寿命が尽きようとしている」というのは主人のそれこそ「ただの思い込み」でした。入口にいちばん近い席でたぶんきょうも、いまも寝ています。

2022年3月1日 純喫茶・時間(たいむ)
店主・鴨居洋子

(『わたしを見つけて』4)

*本作の初出は、春陽堂書店「Web新小説」2022年3月1日号です。

著者:横田創
装丁・組版:中村圭佑(IG /TW
WEB:橋本忠勝(リブアーク
編集:竹田信弥
発行:双子のライオン堂