Wikipediaにそう書いてある(テキスト版)

 JR検見川浜(けみがわはま)駅の北口の広場に歩行者専用の陸橋がある。平日の朝早く。ゆるやかな勾配を住宅地の並木道のほうから駅に向かってまっすぐ渡ってくる通勤客の流れを割る位置に6角形の花壇がある。
 潮風に強いハマヒサカキの植え込みと6個のベンチに囲まれている。難攻不落の若いクスノキである。去年の4月に引退したあとバイトのない日は日がないちにちそこで過ごすのがなんとなくな習慣になった。
 誰の目から見てもあきらかに元気の出ない習慣である。仕事柄、同じ場所で長い時間を過ごすことには慣れている。朝の7時前から日が暮れるまで。半日くらい。考える。それ以外にすることのない男。葦田鶴高梁(あしたづ・たかはし)。それが僕の名前である。
 1970年生まれの51歳。埼玉県大宮市(現:さいたま市見沼区)出身。愛称は「タカハシ」。Wikipediaにそう書いてある。
 美容師の妻がまだ付き合い始めのころ僕のことをそう呼んでいたのがこの愛称の始まりであると書いてあるがそれは間違いである。僕を「タカハシ」と最初に呼んだのは教室に通い始めたころのともだち(「コバヤン」)である。
 2022年1月6日現在。葦田鶴高梁(あしたづ・たかはし)はファストフードでアルバイトをしている。ゴミチェンと3番チェックくらいしかまだできない新人も新人。ド新人である。Wikipediaにはまだ書かれていない。
 パチンコも競馬も麻雀もしない。家にいるときはずっとつけっぱなしにするくらいテレビが好きだったのにテレビを観るのをやめた。タバコは10年前にやめた。やめてないのは酒と映画鑑賞とギターである。「部屋とYシャツと私」くらいなら弾き語りで歌える腕前である。
 高校時代。所属していた軽音部でバンドを組んだことがある。バンドの名前はSkipped Beat。スタジオで練習をしたあとはカタクラにあったデニーズでデミグラスソースのオムライスを食べた。
 付き合っていた子の最寄り駅は東武伊勢崎線のせんげん台駅。なので東武野田線(現:東武アーバンパークライン)の大和田駅まで自転車でふたり乗りをして送った。駅前のドムドムバーガーで終電までずっと話をしていた。その子はいつもソフトクリームサンデーのストロベリーを注文していた。Wikipediaには載っていない情報である。

 僕の妻が、正確には元妻が美容師だというのは本当である。高速道路をまたぐこの町でいちばん長い陸橋のすぐ脇に妻が勤める美容院があった。
 2011年の夏。月いちペースで1年ほど通ったある日。僕は鏡越しに妻の反応を見ながら「今度ご飯に行きませんか?」と誘った。妻は「はい」とも「いいえ」とも言わず、嬉しそうでも嫌そうでもないまま僕の髪を切りつづけた。特に反応らしい反応もないまま「ごくろうさまでした」と言われたとき、僕はすでに投げていた。妻が手首のスナップをきかせながらちいさなホウキで僕の肩や背中についた髪の毛を払い落としているあいだも僕はじっと我慢の子でいた。
 なのにである。妻は店の外で見送らずに僕の先を歩き始めた。隣りの焼き鳥屋の煙りを手で払いながら僕は妻のあとを追った。髪を切りたてでうなじがすーすーしていた。妻は預けていたリュックを僕に渡しながら「家はどこなの?」と聞いてきた。感想戦のつもりでいたのに急に忙しくなった。
 僕は総武線の新検見川(しんけみがわ)駅の近くで暮らしていた。線路沿いの餃子の王将と餃子の王将ではない中華料理屋を正面に見ながらファミマの角を曲がると水色のアパートが見える。4畳半もないワンルーム。風呂がシャワーしかない家賃4万円の物件だった。総武線沿線であることだけが僕には重要だった。
 ひとまわり年下なのに妻は冷蔵庫の中や台所の様子を確かめながら「ちゃんと食べてる?」と母親みたいなことを聞いてきた。というのはたぶん嘘である。もちろんそんなことはWikipediaには書かれていないし妻と僕以外には誰も知らないことである。誰も知らないことをいいことに自分の都合のいいように僕が思い出しているだけのことである。
 妻はあわてて部屋の片付けをし始めた僕を「いいから。そのまま。そのまま」と上から押し潰すように座らせた。僕が壁のほうに押しのけようとしていたものを元の位置に戻した。「見た感じ重そうだけど、ほんとに重くてびっくりした」と笑った。
 C級2組で降級点をつけたり減らしたりしていたころの僕の部屋での出来事だった。C級2組で降級点をつけたり減らしたりしていたのに結婚することができたのは翌年の春のことである。C級2組で降級点をつけたり減らしたりしていたのを記録するくらいのつもりで正直にそのまま書いていたらブログのフォロワー数が千人を突破した。本にしましょうよ。売れますよと飲みの席とはいえ幻冬舎の編集者に言われたことがある男。葦田鶴高梁(あしたづ・たかはし)。51歳。幻冬舎の編集者に「本にしましょうよ」と言われた話はWikipediaには書かれていない。

  *

 JR検見川浜(けみがわはま)駅の周辺。千葉市美浜区(みはまく)は妻が生まれたときからずっと暮らしていた町である。プロ17年目。ようやくローンを組むことができたマンションのすぐ隣りにはクスノキの並木道があった。その西側に花見ができる公園があった。
 妻はその公園の池のまわりで暮らしている野良猫たちに名前をつけていた。「退屈な日常に綾をつけるのに猫はもってこいだ」と僕が口にしたとき妻は、しばらくというにはあまりに長いあいだ半開きにしていた口からおおきなため息をついた。
 妻には連れ子がいた。優明花(ゆめか)という8歳の女の子だった。僕は相変わらずだった。C級2組で降級点をつけたり減らしたりしていた。
 プロになってからの10年間。僕の成績がわりとどころかかなり良かったというのは本当である。詳しいことは全部Wikipediaに書いてある。
 成績が下がり始めたきっかけは次点でB級2組への昇級を逃したことだった。あと一歩のところで勝てなかった。5組で優勝し賞金が最も高いタイトル戦の本戦トーナメントに出場したときも初戦で負けてしまった。
 26歳。年齢制限ぎりぎりでプロになれた。プロになれただけで満足したつもりはなかった。達成感はあるにはあったが大事なのはプロになってからだと思っていた。
 妻と結婚した年。2012年度は開幕から5連敗していた。プロになれただけで満足したのだと言われても仕方がない成績だった。
 見てろよこの野郎と思っていた。だけど結婚してからも負けが込んだ。妻には負けても固定給がもらえるのだから落ち込む必要はないと言われていた。僕もそう思っていたが眠れなかった。優明花にギターを教えているときだけは落ち込んでいることを忘れていられた。
 2013年3月。名人以外の誰にとってもいちばん長い日。ライオンになることができなかった僕は生まれて初めて「あきらめる」という言葉の意味を知った。
 当日の朝になってもモチベーションが上がらなかった。まだこれからだ。まだ間に合う。巻き返せると気持ちを奮い立たせようとしている自分を持て余していた。
 2勝8敗で終わった。降級点がつき、フリークラスに落ちた。葦田鶴高梁(あしたづ・たかはし)を待っていたのは鬱との戦いだった。

 取って取って取ってで。うまくさばけたあとの盤上みたいにすっきりとした朝だった。空の高いところを雲が流れていた。
 僕は結婚してからもずっと妻に髪を切ってもらっていた。月に1度の儀式というか願掛けみたいなものだった。
 妻が勤める美容院に行くにはこの町でいちばん長い陸橋を渡らなければならなかった。水色のフェンス越しに高速道路を覗き込み写真を撮るのが習慣になった。
 川ではなく道路を渡る。だから陸橋と呼ばれる。その橋を怖くて渡れなくなった。橋が怖いのではなかった。怖いのは自分だった。だけど「大駒は近づけて受けよ」と妻に言われて目が覚めた。with鬱で行くと僕はこころに決めた。

 正直なんでも良かった。コロナと一緒で鬱に特効薬なんてないのはわかっていた。いままでしたことがないことであるならなんでもいいと思った。
 僕がカーリングに挑戦したことがあるというのは本当である。楽しみの多い競技であるのはすぐにわかった。熱心に誘ってくれた渡辺名人(当時は三冠)に手厚い準備をしていただいた。にもかかわらず僕は軽井沢からその日のうちに逃げ出した。
 タカハシにはチーム競技は無理ということになった。ならばと登山に誘われた。誘ってくれたのはもちろん中川八段である。優明花を義母に預け、妻と一緒に奥多摩のご自宅にお邪魔した。
 登山靴の選び方から地図の読み方まで中川さんから直接指導を受けた。お庭でバーベキューをしてくださりお酒もたくさんご馳走になった。
 5月の新緑の季節だった。都民の森という初心者向けの山に登ることになった。リュックサックやレインウェア、ストックといった大駒はもちろん登山に必要なものは全部買い揃えた。にもかかわらず僕は集合場所の武蔵五日市駅の向かいにある喫茶店(山猫亭)に行かなかったというのは嘘みたいな話だが本当である。
 タカハシにはなにを薦めても誘っても無駄合いという雰囲気になった。僕にとって誘われることや薦められることは攻められるのと同じだった。そこからして問題であることに僕は気づかずにいた。受け切るくらいのつもりで誘いを断っていた僕が誰にも誘われなくなるのは当然だった。

 中川八段のお宅にお邪魔したのがきっかけで妻はひとりで登山をするようになった。あっというまに2500メートルを越える山にもひとりでテント泊で登るようになっていた。春に高校生になったばかりの優明花が「わたしも登ってみたい」と言い出した。
 最初に登れる山といったら高尾山くらいか。そう高をくくっていたら長野まで夜行バスで行って早朝から登る計画をふたりで立てていた。なんというか、ちょっとたのしそうだった。
 ダイニングテーブルに地図をひろげているふたりの背後から近づくと「一緒に登る?」と妻に先手を打たれた。どこに登るのかと聞くと「教えてあげたら登る?」と追い詰められた。部分的にではあるが受けなしの状態である。僕は形作りもできぬまま風呂に入った。それが前の晩のことだった。

 僕がいまここでまた詳しいことを語る必要はないだろう。Wikipediaに全部書いてある。
 妻がテレビのカメラの前でなにかを言うたびに局面は悪くなる一方だった。変化は無限である。AIの打ち筋を参考にしなければ最善手を打ちつづけることなんてことは誰にもできない。見ず知らずの人間に「死ね」と言われることには何千回、何万回言われても慣れることはなかった。
 桂馬の高飛び歩の餌食とはこのことだった。事件が起きた当初。僕らは世間と呼ばれる見ず知らずの人間たちの中に裸でぴょんぴょん跳ねてしまった無邪気な子馬だった。自分たちが不用意に口にした言葉が相手の駒になり詰めろを掛けられる。文字通り待ったなしの局面に立たされてから僕らはようやく自分たちの置かれた立場を理解し始めた。写真はもちろん優明花という名前をメディアに公開したことを妻はいまでも後悔している。
 あのときああしていたなら。あれをしていなかったなら。ああはならなかったのではないのか。「負けました」と言っても終わらない時間の全部を使って妻と僕はひとりで考えつづけた。
 口を開けば必ずこの話になる。話さなくても優明花のことを考えている。妻と僕はお互いのために用事があるときしか話さなくなった。用事とは優明花のことではないことである。Wikipediaにそう書いておいて欲しい。僕がそう言っていたと書いておいて欲しい。
 思うに結婚とは序盤中盤の揉み合いが永遠につづくことである。似たような局面の繰り返しになるけど千日手指し直しになればやり直すことができる。そう思っていた。だが夫婦としての持ち時間は確実に減っていた。妻とは1年前に離婚した。

  *

 昼過ぎから雪がちらほら降り始めた。雪が降り、はしゃぎまわる優明花の姿を僕はまだ見たことがない。
 2013年の冬。優明花は父兄同伴のスキー教室にも参加していた。のちに失踪現場となる白馬八方尾根スキー場だったとWikipediaに書いてある。葦田鶴高梁(あしたづ・たかはし)ではなく「白馬スキー場少女失踪事件」の脚注の中に。
 父兄同伴のスキー教室には妻だけが参加した。妻が送ってくれた写真を昼食休憩のあいだにスマホで見たことをおぼえている。白いスキーウェアの上から「千葉」と書かれたゼッケンをつけた優明花は寒さで頬を赤くしていた。リフトを降りたばかりのところで撮られた写真だった。いまにも泣き出しそうな顔で笑っていた。

 北口の広場からクスノキの並木道に面したイタリアン・レストランに移動した。ショッピングモールの外から直接入ることができる。ファミレスみたいな外観の店である。
 カフェがあるならカフェが良かった。東京のまん中らへん。神保町とか有楽町とか。新宿とかにあるような古めの喫茶店(らんぶるとか西武とか)ならなお良しだった。
 Wikipediaに書いてある僕が無類のコーヒー好きであるというのは本当である。スタバもドトールもエクセルシオールもタリーズもコメダもベローチェもサンマルク・カフェもないと知っていたら僕はこの町に住むことにはしなかったはずである。
 知らなかったおかげで住むことができた。妻と優明花と3人で暮らすことができた。なのに3人一緒に写った写真が1枚もないことに気づいたのは妻と離婚することになったあとだった。

 ノータイムで決めた料理が運ばれてきた。前に来たとき優明花が注文したトマトソースのパスタである。
 妻が泊まり掛けの登山に出掛けていたとき優明花とふたりで来た店だった。チーズが好きな僕はゴルゴンゾーラのペンネを注文した。顔を近づけ、匂いを嗅いだ優明花はおえーって顔をした。
 ひとくちでいい。食べたらどんな感想を言うだろう。なんて言うだろうと思い、僕はわざと優明花が苦手そうなパスタを注文した。「臭い」か「まずい」か「意味がわからない」か。
 そのどれでもなかった。優明花は「食べたことがある気がする」と言った。なにかを思い出しているときの顔をしていた。
 旅館で暮らしていたころのことを思い出しているのである。優明花は5歳まで房総半島のいすみ市で暮らしていた。秋に行われる「はだか祭り」が有名な海辺の町である。Wikipediaにそう書いてある。
 父親が経営していた、主に釣り客を相手にする旅館の3階で優明花は暮らしていた。お風呂は大浴場で台所は厨房だった。玄関は赤い絨毯の敷かれたロビーで奥にマッサージチェアが置かれていた。家の中に自動販売機があるのが当たり前の生活だった。それが優明花が生まれ育ち、両親が離婚するまで祖母とふたりの弟と一緒に暮らしていた「家」なのだった。
「大原で?」
 僕はパスタを口に運びながら聞いた。大原の旅館。優明花はそう呼んでいた。
「わかんない」
「それってピザだった?」
「え。どゆこと?」
 お店のひとに聞くと4種のチーズにはちみつをかけて食べるピザがあると教えてくれた。
「なるほどねえ」
 頼むかと聞くと、ううんと首を振った。
「今度にする」
 優明花の決断力にはいつも舌を巻く。「じゃあ」と言いかけたまま僕は口をつぐんだ。優明花がまだなにかを思い出している顔をしていたからである。その顔のまま窓の外を見ていた。「テルーの唄」を口ずさみ始めた。
 中1から音楽を始めた優明花はギターが弾けたしドラムも叩けた。あいみょん。にしな。きのこ帝国。吉澤嘉代子。ずっと真夜中でいいのに。。カヴァーアルバムが何枚も作れるくらいの音源が僕のスマホの中に残ってる。優明花の弾き語りで知ったアーティストもたくさんいる。そんなことはもちろんWikipediaには書かれていない。
 建築やインテリアにも興味があったし、ときどき漫画も描いていた。口下手な僕と違って優明花は言葉のセンスが抜群だった。返信を読みながら噴き出したことなら何度もあった。優明花ならTikTokerにだってなれたかもしれない。

 僕が現地に、白馬に行かなかったというのは本当である。僕が行っても仕方ないと言い放った。Wikipediaにそう書いてある。
 言い放ったかどうかはわからない。言われたほうの印象なのだから、そうなのだろうとしか言えない。僕が行っても仕方がない。それが僕の大局観だった。
 ではどこにいるのが好手なのか。それがわからなかった。電車に乗っていることも、窓の外を眺めていることも、スマホを握りしめ現地の警察からの連絡を待っていることも僕には無意味に思えた。
 市ヶ谷で電車を降りた僕は駅のホームから、釣り堀に興じている者たちを眺めていた。いや。眺めてもいなかった。釣り竿の動きを、しなるその動きを目だけで追っていた。
 ちょうどそこへ電話が掛かってきた。事務の女の子からだった。どこにいるかと聞かれたから「市ヶ谷にいる」と答えた。なにをしているのか聞くから「釣り堀をしているひとたちを見ている」と答えた。「僕が行っても仕方がない」と言ったのはそのときである。「え」とその子が息を飲んだ声がいまも僕の耳の中に残ってる。

  *

 本格的に雪が降り始めていた。手前の雪とその奥の雪。さらに奥の雪が着物の前合わせのように斜めと斜めで降っている。
 見たことがないくらい軽い雪である。時間稼ぎでもしているのか。それとも落ちたくない理由でもあるのか。ふわふわといつまでも宙をさまよっている。
 Yahoo!の天気予報によると関東の南のほうでも雪が積もる可能性があるということである。となると長野には何センチくらい積もるのか。センチじゃ済まないのか。メートルか。この2年と半年。896日のあいだにどれだけの雪が降り、どれだけの雪が積もったのか。
 2019年7月28日。優明花が白馬連峰の八方池(はっぽういけ)周辺で行方不明になってから3日目の朝。妻から電話が掛かってきたとき僕は「落ちついて聞いて欲しい。できれば最後まで聞いて欲しい」と前置きをしてからこう言った。
「優明花とふたりでパスタを食べたことがある」
「はああ?」と妻は声を荒げた。「なにパスタって? 急にどうしたのよ? なんなのよ」とおおきな声を出した。「僕が言いたいのはそういうことではなくて」とつづきを話す前に電話が切れた。妻は買ったばかりの衛星電話を岩に叩きつけたのである。
 僕と電話で話しているあいだもずっと妻の声はヘリコプターのものすごい音の中に埋もれていた。自衛隊の出動要請が出ていたことはあとで知った。

 第一感は遭難だった。とはいえ僕には登山の経験がほぼ無かった。ほぼの中に含まれているのは小学生のとき遠足で登った鋸山(のこぎりやま)である。山頂までロープウェイで行って大仏に手を合わせて来ただけの登山だった。つまりは皆無と言ってもいい。そんな人間の形勢判断である。信じるわけにはいかなかった。
 新宿のホテルに滞在し、少しだけ深くニュースを読んだり地元の警察の方たちの話を聞いたあとでの判断にもならない判断は、妻の勘違いであって欲しい、だった。仕方がなかった。考えようにも考える材料そのものがなかった。
 あの日。妻と娘は兎平(うさぎだいら)というゴンドラの駅で待ち合わせをしていたのは本当である。娘は体力的に八方池まで登るのが限界だった。なので妻はひとりで唐松岳(からまつだけ)まで登った。優明花はひとりで八方池(はっぽういけ)のトレッキングコースを登った。

□兎平(うさぎだいら)駅⇆(アルペンクワッドリフト)⇆(グラートクワッドリフト)⇆八方池山荘(はっぽういけさんそう)駅⇆第2ケルン⇆八方ケルン⇆第3ケルン⇆八方池(はっぽういけ)⇆唐松岳(からまつだけ)山頂。

 八方池(はっぽういけ)の湖畔をぐるっと回って帰ってくるだけなら、どんなにゆっくり歩いても3時間もかからない。なので兎平(うさぎだいら)駅にちょうどその日オープンした新しい施設(ビーチラウンジ)でふたりは待ち合わせをしたのである。
 誰もが知ってる通り、いちばんの謎は、ただのひとりも優明花の目撃情報を得られなかったことである。ビーチラウンジのスタッフもリフトやゴンドラの職員も、大勢いたはずの登山客の中にも優明花を見た者はいなかった。
 なので優明花ちゃん(当時16歳)はそもそも登山などしていなかった。母親の桃子(当時37歳)に殺された。警察に失踪届が出されたときにはすでに遺棄されていた。一緒に登山をしたというのは母親の虚偽の供述であり、その目的はアリバイ作りにある。などとまことしやかに言われたのである。

 不謹慎と言われるかもしれない。僕には思いつかない手だと思った。はっとした。
 優明花が白馬でいなくなった。兎平(うさぎだいら)駅と八方池(はっぽういけ)のあいだのどこかでなにかが起きた。妻も僕も警察も全員がその局面から考え始めていた。初手から間違っていた可能性がある。
 そもそも優明花は登山などしていなかったのかもしれない。登山に誘われたときの僕と同じである。思うところがあって登らなかった。八方池には行かなかった。唐松岳(からまつだけ)に向かう妻を見送るとすぐにロープウェイで麓まで降りた。
 登らなかったのだから遭難することはできない。登ってないのだから滑落することはできない。道に迷うこともできない。おなかがすいて泣いてるなんてことにはならない。悪いひとに声を掛けられてどこかへ連れて行かれるなんてことにはならない。なりたくてもならない。なろうと思ってもならない。なぜなら優明花は山には登らなかったからである。
 となると考えられる変化は1つだった。優明花はいまもどこかにいるのである。どこにいるのかわからないからどこにもいない。その判断は間違いである。
 僕にわからなくてもそのわからない場所に優明花はいるのである。いまはいまである。その場所はその場所である。優明花は優明花がいる場所にいる。

 いつだったか。既読がついたのに何時間たっても返信がなかったことがあった。心配半分。不満半分で家に帰ると風呂上がりの優明花が部屋でギターの練習をしていた。
 スタンプくらい送れよと思いながらも僕はほっとしていた。その日からすぐに返信がなくても優明花の身になにか起きたのではないか、嫌われたのではないかと思わなくなった。きっと忙しいんだろう。いま手がちょっと離せないんだろうと思うようになった。

 僕が将棋でいちばん好きなのは、駒を取っても取られても駒がどこかへ行ってしまうわけではないことである。駒損したとか駒得したとか言うには言うが、駒の所有者が変わっただけで駒そのものが失われたわけでも消えたわけでもない。「負けました」と頭を下げてもいる。盤上か、そうでなければ駒台の上にいる。どこかにはいる。

  *

 雪はまだ降りつづけている。天気予報の言ってた通りである。夕方になってもまだ降っている。ぼんやりと白く輝く空の全部の中から降っている。
 ドムドムバーガーがあった大和田駅のちいさな駅舎の上にも降っている。妻が勤めていた美容院が1階にある古いマンションの屋上に立つ丸い給水タンクの上にも降っている。ハマヒサカキの植え込みと6個のベンチに囲まれた若いクスノキの上にも降っている。
 雪はどんな場所にも降っている。降っている場所に降っている。降っても積もらない場所にも降っている。ことにきょうみたいな雪は、この軽くてふわふわした雪ならレストランの窓の外に植えられた若くて細くて頼りないクスノキの冬でも枯れない、枯れても落ちない、かたくてちいさな葉の上にも降っている。
 雪はまだ僕が会ったことがないひとたちの上にも降っている。歩いているひとの傘の上にも降っている。廃業した山小屋の屋根の上にも降っている。風が強くて誰もいない砂浜の上にも降っている。なのにどうして優明花の上に降らないなんてことがあるだろうか。

(『わたしを見つけて』3)

著者:横田創
校正:矢木月菜
装丁・組版:中村圭佑(IG /TW
WEB:橋本忠勝(リブアーク
編集:竹田信弥
発行:双子のライオン堂