寺泊
タバコの煙があまりにすごくて席を立った。パンケーキにドリンクバーをつけても220円で済むのに学生と名のつく人間がほとんどいない。その理由がわかった気がした。
マックに行ったらハンバーガーとアイスラテのS。ドトールならジャーマンドックとアイスラテのS。モスならホットドックとコーヒーシェイクのS。この組み合わせで2時間。僕は渋谷で勉強をする。
ジョイタイムのカウンター席があいていたらジョイタイムで勉強をした。ファミレスなのにチェーン店がないジョイタイムは塾のおおきなビルの向かいのちいさなビルの地下にあった。
ハンバーグとかピザとかメニューはいろいろあったけど塾の前の腹ごしらえはパンケーキと決めていた。タバコの吸い殻で灰皿をいっぱいにしながら書き物をしているひとや書類をひろげて商談をしているサラリーマンが多かった。口さみしいときはミンティアの小さな粒をこっそり口の中に放り込んだ。
2004年3月8日(月曜日)14時51分。塾が始まるまでまだ1時間くらいあった。山下書店でジャンプの立ち読みをした。
月曜日はジャンプの発売日だった。小3の4月から塾に通い始めたからもうすぐ1年がたとうとしていた。子供のときから勉強だけしかしてこなかった僕の唯一の趣味。それは漫画を読むことだった。
将棋のルールでいちばんおもしろいのは取った駒を自分の駒として使えるところ。確かにシカマルの言う通りだ。飛車角落ちでも取った相手の駒を使って勝つのが名人。問題文をつくったひとが答えて欲しいと思っているのが答え。正解なんてないのは受験も同じ。負けるなシカマル(ジャンプのキャラクターの中でいちばんかっこいい)。きみは忍者界の名人なのだから。
15時35分。山下書店の道路を挟んだ向かい側にいつものひとだかりができていた。スーツにネクタイをした男のひとも白いブラウスを着た女のひとも立ったまま黙ってタバコを吸っていた。
磨りガラスで中の様子がうかがい知れる駅員室の木枠の窓の下に置かれた灰皿からもうもうと立ち籠める煙の中。歩道橋の階段の下や東横線の高架下のほうまで陣地をひろげて(たのしいかたのしくないかで言ったらたのしくない顔をして)どこか仕方がなさそうにタバコを吸うひとたちの群れを見るたびに水上勉(みずかみつとむ)の小説「寺泊」を思い出した。
祖父の家の本棚にあった。読んだときは特にどうとも(おもしろいともおもしろくないとも)思わなかった。モヤイ像の隣りやハチ公広場の街路樹の下。渋谷駅のまわりのそこここで一心不乱にタバコを吸うひとたちを見たとき思い出した。おもしろいと思った。「寺泊」が渋谷の喫煙所で蟹を食べる代わりにタバコを吸っていた。
最初の苦悩
塾に行く日は早退することもあった。表向きは体調不良ということにしていた。問題視するひとはいなかった。いたら学級委員の推薦を辞退したのに。
目安箱の設置はしない。運動会のリレーの練習はしない。ホームルームの司会進行はするけど議論のための議論はしない(させない)。必ず定時で閉会する。学級委員になったからというだけで思いついた意味のないことは実行しないことを約束した(意味とは価値のことなり)。それが僕の所信表明演説だった。
5年のとき担任だった武富美衣(たけとみみい)先生は大学を出たばかりの若い先生だった。ミミイと女子たちに呼ばれていた。馬鹿にされているのを知っても先生はキーボードを打つ手をとめなかった。
2005年5月23日(月曜日)16時32分。ムーミンのミイみたいでかわいいとか言って。むしろうれしそうにしていた。
「なんで中学受験すると決めたのかとか聞いてもいい?」
話の流れもへったくれもない。急な質問だった。
「嫌です」
「言うと思った」
「なら聞かないでください」
「綾瀬くんは拉致問題についてどう思う?」
これまた急な質問だ。僕はレモンライムミント味のミンティアを口の中に放り込んだ。
急すぎる質問をされたときはむしろ前もってするつもりでいた。あらかじめ準備していたと思ったほうがいい。先生に限らずおとなはだいたいみんなそうだ。拉致問題の歴史的経緯と現状を頭の中で整理しながら先生の横顔を見つめた。
「5人だけでも連れて帰ってよかったと思う? それが正解だった? 残りのひとはみんな死んでるって本当なのかな? ぜんぜんそんなことなくて。普通に生きているのかな?」
歌いながらピアノが弾けるひとみたいだ。先生は僕と話しながら僕と話していることとは別のこと(学年主任に送らなくてはならない1日のまとめと反省と対策)を考えている。パソコンできょう1日のことを書きながらスピーカーにした電話でだらだら話すみたいに僕と話をしている。
「いまのいま。近所の公園でハトに餌をあげてるかもしれないよね? 用があれば自転車にだって乗るしケーキを食べたあとのお皿を洗ったりもするし歯磨きをしたあと日記をつけたりするよね? してるよね? わたしたちが知らないだけで。見てないだけで。いまのいま。ぶちって。庭の草をむしったかもしれないよね?」
質問はひとつにしてくれると助かると5分くらい前に言ったばかりだった。
「ひとつにするね」
「そうしてください」
「大学を卒業してからずっと会ってないし連絡もとってないのに。そもそも告白すらしたことがないのにまだ好きなひとがいるとかキモいかな?」
え?
「はい。おしまい」
先生はパソコンを閉じるとそのまま机に突っ伏した。ふーっとおおきく息を吐きながら僕を見ていた。目だけで僕の返事を待っていた。
きのう読んだばかりのカフカの短篇「最初の苦悩」を僕は思い出していた。昼も夜もずっとブランコの上にいると決めたブランコ乗りは電車で移動するときも網棚に寝そべり横向きになってときどき思い出したように興行主とおしゃべりをした。
「もしかしたら拉致されたひとたちにもそういうひとがいたのかもしれませんよ。いまも好きだから。本気だから。メディアには出てこないだけで。告白したことがないのはお互い様で。ずっと会ってないし連絡もとってないのにまだ好きなひとがいて。歯磨きをしたあと日記をつけているかもしれない」
「あらあら綾瀬くん。きみはそれでなにかうまいこと言ったつもりなのかな? 恋愛なんてしたことないくせに」
なら僕に聞かないでください。恋愛なんてしたことないと決めつけないでください。
「ぎったんばっこん。サーカスのブランコ乗りの苦悩と松戸の小学校で新任教師をしているわたしの苦悩は似ても似つかぬものだと思うな」
それは思っただけで言っていません。聞こえてないはずです。ぎったんばっこんはシーソーです。
盗まれた手紙
はじめて会うのにはじめてではない気がした。トレンチコートを着たそのひととどこかで会ったことがある気がする。それも1度や2度ではなく頻繁に。毎日のように会っている気がするのに思い出せない。レモンカクテル味のミンティアを口の中に5粒いっぺんに放り込んだ。
右の足の甲が黒なら左は白。左が白なら右が黒のNIKEのサンダルを脱がずに膝を立てた上級国民の女(ギャル)がストラップをじゃらじゃらつけたふたつ折りの携帯電話で通話をしている。ジャスパー・ジョーンズの星条旗を背にした特権階級の女(ギャル)の携帯電話だけがなぜ繋がるのか。電波が届くのか誰にもはわからなかった。
貴重も貴重。奇跡みたいな電波を湯水のように使い特にいまする必要のない話をしている。畏れ多くてずっと空席だった彼女の隣りに腰掛けたのがそのひとだった。細身のトレンチコートのボタンを上まできっちり留めていた。
2011年3月11日(金曜日)14時46分。僕は学校からいちばん近いドトール(本社ドトールとも呼ばれる渋谷神南一丁目店)で勉強していた。
まるいテーブルの中央に置かれた噴水のシャンデリアはソーサーの上でカップが揺れる前から揺れていたし揺れがおさまったあともしばらく揺れていた。
店の外に出る前からわかっていた。車が走っていないところは全部ひとの頭で埋めつくされていた。
急いで駅へ向かうひとと駅から離れるひと。ふたつの流れが同時に存在していた。あいているのは日が傾き始めた空だけだった。どちらにするとも決めかねていた僕は西武デパートの渡り廊下を見上げながら交番のうしろに台湾料理屋(龍の髭)が建つY字路のほうに流されていった。
16時26分。ドンキホーテの隣りにあるフレッシュネスバーガーに流れ着いた。開店休業中だった。
レジをスルーして木の階段を上がった。2階は文化祭の準備をしている教室みたいにイスやテーブルがいいように動かされていた。誰もが納得しない場所に納得しないまま立ったり座ったりしていた。
源泉掛け流しの携帯電話で話しながら貴族の末裔(ギャル)が階段を降りていった。聞く気がないまま結局1時間近く彼女の話を聞いてしまった。地元(代々木八幡)のともだちとの待ち合わせ場所(サイゼリヤ渋谷東急ハンズ前店)までスクーターのふたり乗り(ひとりはノーヘル)でこれから行くのだ。
僕はずっと彼女が誰なのか考えていた。彼女は彼女でもトレンチコートの彼女だった。彼氏かともだちの連絡待ちなのだろう。ときどきスマホの画面を明るくして確かめてはため息をついている。
思い出そうと思えば思うほど思い出せるものまで思い出せなくなるのは本格的に受験勉強を始めてから最初に知ったことだった。ダイエー(新松戸店)のフードコートでひさしぶりに会った小学校のときの同級生の名前を思い出せなかったときも同じだった。
いくら思い出そうとしてもその子の名前を思い出せないまま適当に当たり障りのないことを話しつづけた。開放されるとすぐに僕は本屋がある3階に向かった。エスカレーターの最初のステップに足を乗せたときだった。あんなに思い出せなかったその子の名前を思い出した。本を開いて読むように思い出した
「あら綾瀬くん。ひさしぶり。元気にしてた?」
小5のときの担任の先生(ミミイ)がそうだった。新松戸駅のホームですれ違ったとき僕の顔に僕の名前が書いているかのように先生は僕の名前を呼んだ。小学校を卒業して以来だから4年ぶりに。事故みたいにして会ったのに。
確かに先生の言う通りだ(言ってはいないし言われてないけど)。先生と会わなくなってからも僕は僕で。答えは綾瀬直樹だ。先生は僕という教科書に書かれた文章(答え)を読んだだけなのだ。
答えの上に緑のマーカーを引き赤いシートで隠すなんてもってのほかだ。大事なところが読めない文章を思い出してしまう。教科書だけじゃない。本はまるごと答えなのだ。どこを読んでも正解しか書かれていない。だから僕の勉強法はただ本を読むだけなのだ。
嘘だと言われるけど本当だ。古典の勉強をするときも英語の勉強をするときも。数学の勉強をするときもそうだ。
きのうは「讃岐典侍(さぬきのすけ)日記」を読んだ。中世の日記文学の中ではいちばん好きだ。お取り寄せしたポーの短編集(ペーパーバック)はリュックの中に入れっぱにしている。ライプニッツの微分積分を研究している大学の先生が書いた数学史の本を地元の図書館できのう見つけた。
答えはいつでも答えのあるべき場所に書かれている。センター街のCDショップ(HMV)が閉店したあとなにになったのか。行けばわかるのと同じだ。
渋谷は常に書き換えられ改定されつづけている街の教科書だ。2月いっぱいでジョイタイム(渋谷店)が閉店してから僕は旅に出た。
僕の中にいま僕はいない。僕の中の勉強をしたい(本を読みたい)という気持ちは放浪の旅に出ている。
本社ドトール(渋谷神南一丁目店)は悪くなかった。また勉強しに(本を読みに)行くかもしれないし行かないかもしれない。それは僕自身にもわからない。読み始めた本を最後まで読むのかわからないのと同じだ。読書の魂は強制されるのが大嫌いだから。
21時2分。いわゆる芸能人クラスの美人がきょろきょろひとを探す目で階段を上がってきた。
「さとみー」
ここここーと立ち上がり手を振ったのはトレンチコートの彼女だった。
ひとりでいたときはわからなかった。表情がころころ変わる(かわいらしい)ひとだった。彼女は僕のほうを1度も見ることなく店を出て行った。
やることがなくなった僕は豪徳寺のマンション(祖父の家)まで2時間かけて歩いた。倒れた本棚の後片付けをしているうちに朝になった。春休みはそのまま豪徳寺で過ごした。
2011年4月8日(金曜日)8時19分。時刻表通りに渋谷駅に着いた。銀座線の改札口(降車専用)を出てすぐ右にあるキヨスク(メトロス)でブルーベリーヨーグルト味のミンティアを買った。Suicaのレシートを受けとる。
文房具は伊東屋で。下にジューススタンドがある階段を降りながら天井に貼られた広告をこころの中で読む。少しだけ日常(というかいつもの感じ)が戻ってきた。
なにかを思い出せそうな気がした。なにを思い出すのか。うわ目づかいで頭の中の天井を見つめながら降りた。あと3段のところで足がこんがらがった。2段抜かしで飛び降り事なきを得た。
思い出した。Suicaのレシートを言わなくても差し出してくれた彼女が彼女だった。トレンチコートの彼女だった。
限りなく透明に近いブルー
ジェット機の音ではなかった。雷だった。埼玉の南のほうの町(朝霞とか戸田)のアスファルトにはきっともう雨がぽつぽつ落ち始めている。白いスポンジを上にした貝割れ大根みたいに雨を落としながら田んぼ中の住宅地を見おろしている雲が荒川の河川敷を渡って僕が住む千葉の北のほうの町(松戸)に近づいている。
大学生になるのと同時に東京でひとり暮らしを始めるつもりで買ったIKEAの黒いローテーブルの上に吸い殻であふれかえった灰皿はなかった。口紅のついたタバコなんてあるはずなかった。世間から白い目で見られることばかりしてるともだちとまわし飲みしたワインの空き瓶も飲み残しのグラスもなかった。そんなともだちなんていなかった。
自分の部屋でお酒を飲んだことも飲みたいと思ったこともなかった。それはタバコも同じだった。吸ったことも吸いたいと思ったこともなかった。
僕の部屋には机がなかった。あったけど高校生になった繁人(4つ下の弟)にあげてしまった。勉強は家ではしない主義だった。
生まれ育った家にいる必要も欲望も(これといった理由も)ないのにまだ家にいた。そんな男の部屋に書くべきものなどあるはずなかった。
2014年8月15日(金曜日)15時21分。ノートパソコン(MacBook Air)に保存していた書きかけの小説を消した。1ヶ月くらい前からつづきを書けずにいた。
いま思えば日本文学とかフランス文学とかドイツ文学とか文学部のど真ん中にある学科を選択しなかった(あれこれいろいろ考えて哲学科にした)反動だったのかもしれない。小説を書いてみようと思った。
子どものころから読んでいたのに書いたことも書きたいと思ったこともなかった。なのに書いてみようと思った。書いてから決めようと思った。
まだ1行も書いてないのに書く前からたのしくて仕方がなかった。ゼミの課題で出された読んだことも読みたいと思ったこともなかった哲学書(アリストテレスの『形而上学』やセネカの随筆や悲劇)も読むのが急にたのしくなった。ルソーの『人間不平等起源論』やマルクスの『経済学・哲学草稿』を読みながらあれこれ考えていたときと同じくらい線を引いたり余白に書き込みをした(付箋は貼らない主義だった)。
いまならなんとなく書けそうな気がした。塾のアルバイトまでまだ時間があった。エクセルシオールカフェ(渋谷桜丘店)の螺旋になった階段を降りてすぐ右のいつもの席でパソコンを開いた(降りて左は喫煙席だった)。
なにが書けたのかわからないけど書けたは書けた。15行くらい書いたところでパソコンを閉じた。寝かせて次の日。地元のファミレス(ココス松戸馬橋店)で手直しをしてから読んでみた。
手応えがあったかなかったかで言えばなかった。まったくなかった。びっくりするくらいなかった。
いま読んだのに読んだ気がしなかった。なにを読んでいるのか。なぜ読んでいるのかもわからない。なにも教えてくれないしどこにも連れてってくれない。白地図みたいな文章だった。
いや。そんなレベルの話じゃなかった。出掛けてきます。夜には帰りますとか。いつもトイレを綺麗に使ってくださりありがとうございます程度の仕事もしてない。言葉がただ言葉というだけで。書いたというか書かれただけで満足してしまったみたいになにもしないでいる。びっくりした。
消そうと思う前にcommand allでdeleteしていた。書いた中身以前に書いたこと自体忘れたかったし誰にも知られたくなかった。
なのにすぐにまた書き始めていた。ひねりだした別の1行の次の1行を考えていた。その懲りなさ加減にもびっくりした。文字通り寝る間も惜しんで書きつづけた。
いくら書いてもつまらないものしか書けなかった。いろいろ言ったけど。言ってしまったけど(言ってないけど)。つまらないで済む話だ。
つまらないものはいくら書き直してもつまらないものにしかならなかった。ならばつまらなくないもの(おもしろいもの)の真似をすればいい。村上龍の「限りなく透明に近いブルー」しか思い浮かばなかった。
読むのは2度目なのにおもしろかった。いや。1度目に読んだときの数倍(数十倍いや数百倍)おもしろかった。発見しかなかった。読みながらメモを取り過ぎた。あたらしいノート(キャンパスノートB5ドット入りB罫・ブラック)を伊東屋まで買いに行った。
1度目に読んだときには気づかなかった。めちゃくちゃな生活(とも言えない生活)だから読めば読むほどだまされてしまう。これはただの日記なのだ。日々の生活の記録でありふと思ったことや感じたこと(思い出したこと)を忘れないためのメモだった。いま書いている(もしくはこれから書こうとしている)小説[Work in Progress]のためのノートだった。
こんな小説を書いたからって、俺が変わっちゃってるだろうと思わないでくれ。俺はあの頃と変わってないから。 リュウ
ゼミの課題を「限りなく透明に近いブルー」で書いた。哲学科なのに小説で書いた。綾瀬くんはアートとか文芸の評論のほうが向いているかもしれないと教授に言われた。うれしいような悲しいような。いや。ベンヤミンみたいな仕事ができるかもしれないと言われた気がしてむしろうれしかった。
タイトル未定の小説は書いた本人以外の誰にも読まれることなく消えた。
予期される未来
いま思えばヒカリエは未来の先遣隊だった。その後の渋谷の予知であり体現者だった。
昭和に青春時代を過ごしたひとたちにとって在りし日の渋谷といえば東急文化会館だった。巨大スクリーンの映画館があり屋上に屋根が突き出たプラネタリウムもある文化の殿堂。その跡地にずっとひとりで立っていた。
ひさしぶりに見たヒカリエはきのう建てたみたいにぴかぴかだった。巨大な箱を積み上げたような(どこかで見たような)外観もわりと新鮮だった。10年たっているとは思えなかった。
渋谷ストリーム。渋谷フクラス。渋谷スクランブルスクエア。そしてこの夏。僕が通っていた塾のビルが渋谷サクラステージの一部になった。
渋谷だけではなかった。いまや超高層複合ビルは駅のまわりの空の常識になった。ヒカリエはちっともさみしくなくなった。
2022年3月。僕は博士課程を満期退学した。その年の後期から非常勤講師の職を得た。小学生のときから20年近く通いつづけてきた塾を辞めた。
4月。去年の暮れに亡くなった祖父の家(豪徳寺のマンション)でひとり暮らしを始めた。相続の問題にけりがつくまでという約束でおゆるしをもらった。
2024年4月。非常勤講師の職を失った。いわゆる雇い止めというやつだ。悪いことはつづくもので祖父のマンションに買い手がついた。
3ヶ月以内に出ろと言われた。家賃を含めた生活費を稼ぐためにアルバイトをするか実家に戻るかの2択を迫られた。博士論文どころの話ではなかった。
2024年8月8日(木曜日)10時23分。父から速達が届いた。叔父の会社の経理部で雇ってもらうことにしたから9月から出社するように。
寝耳に水だった。祖父のマンションを売らなければ困るのはその叔父だった。紙ゴミにした。
2024年8月17日(土曜日)13時6分。台風7号が日本列島を離れ福島県の東方沖を東に進んだ。
台風一過のこの日。僕はモスバーガー(渋谷公園通り店)で勉強をしていた(コーヒーシェイクのS)。博士論文(「サブスク・ストリーミング・ソーシャルネットワーク」)の準備をしていた。9日目の渋谷だった。
博士課程から僕は現代文学論の研究室に所属を変えた。博論の指導教授になってくれた壬生善治(みぶよしはる)教授は現代アメリカ文学が専門だった。テッド・チャンの2冊目の短編集『息吹』が現代文学の最高峰ということで意見が一致した。
読み始めたばかりの僕よりも鮮明に記憶しているフレーズや表現がいくつもあって驚いた。研究室で『メッセージ』をイスを並べてパソコンで観たのはいまとなってはいい思い出だ。
書く前から無理だと言われた。論文という形式自体を疑うのはやめたほうがいい。中身で勝負しろというのが教授が僕にしてくれたアドバイスだった。
もう2年。研究室に顔を出していない。誰とも連絡をとっていないしLINEに既読をつけてもいない。後輩の博士号取得のパーティにも行かなかった。
ただ勉強がしたかった。子どものころからずっとそうだったしいまもそうだ。勉強をしてなにがしたいわけでもなにになりたいわけでもなかった。勉強をするのが嫌だとか苦痛だとか思ったことがない人間の戯れ事(フィクション)だと思って聞いて欲しい。
僕の中では博士になるのもしかるべき職を大学で得るのもただの結果であり原因でも理由でもなかった。博論を書くのは勉強をする言い訳に過ぎなかった。
博論がなくても僕は勉強をしていた。読書をしていた。本当の話だ。読書という純粋な行為には純粋であるがゆえにかたちがない(してもしたことにならない)から書かなければならないだけのことだ。
2024年8月19日(月曜日)3時4分。僕はサイゼリヤ(渋谷東急ハンズ前店)で勉強をしていた(ドリンクバー)。
朝になれば11日目の渋谷だった。宮下公園がミヤシタパークになってなければ足が向いていた。ここは20年前の渋谷ではなかった。飲食店に限らず24時間営業の店はもう数えるほどしかなかった。
4時49分。午前10時に開店するまで清掃時間になるのでと言われた。異論はなかった。あるはずなかった。ほとんどのファミレスが24時間営業だったころから僕はそうするべき(営業しながら半分ずつ掃除をするより合理的)だと思っていた。
呪術のエンディングのアニメのロケ地になった階段の手すりに尻をのせた。神南小学校の校舎のうしろの空に棚引く雲の中に限りなく薄いピンクに近い赤が混じり始めていた。純粋に読書をする方法を考えていた。
2024年8月23日(金曜日)13時9分。台風がまた近づいている。
僕は代々木公園の木陰のテーブルで勉強をしていた(バードサンクチュアリの近くで見つけた水飲み場の水)。池のまん中に噴水があり森のまん中に芝生のおおきな穴があいている。いつでも来ることができたのに来るのははじめての公園だった。
ウグイス色の小鳥が濃い緑の木の中でおしゃべりをしていた。ほーほけきょとは鳴かなかった。
ついーついー。ついーついー。群れながら(転がるように飛びながら)木から木へ(また別の木へ移動しながら)追いかけっこをしている。風に飛ばされた木の葉のように流れていく。
15日目の渋谷。15日目の断食芸人(フランツ・カフカ)。15日目の代書人バートルビー(ハーマン・メルヴィル)。あとこれが何日つづくのか。つづけられるのか。小説の行きつく先など誰にもわからない。誰の言葉でもない。いま僕が思いついた言葉だ。
20〇〇年〇月〇日(〇曜日)〇時〇分。僕は渋谷で勉強をしていた。
(『わたしを見つけて』11)
引用文献
村上龍『限りなく透明に近いブルー』(講談社)