水の中に水があるように(テキスト版)

 あとから来た救急車が残りのひとたちも全員運んでいった。エアバックでむち打ちになった光輝くんだけが救急車の中で横になっていた。
 衝突した相手の車に乗っていたひとたちはベッドの横の細いベンチに座らされていた。アディダスみたいな白い3本線があるカラーコーンに囲われた道路の上は衝突した2台の車の破片できらきらしていた。
 警察官に混じって水色の制服を着た(その道のプロって感じの)ひとたちが番号札を置いたり写真を撮ったりしていた。相手の車(わナンバーのレンタカー)を荷台に載せたトラックみたいな車が助手席のドアがぺしゃんこになった光輝くんの車(父親から借りた左ハンドル)をあごクイして引っ張っていった。
 でもまだ破片のきらきらがそこかしこに残っていた。おおきな手で神様がぎゅっと握れば湿気が雨になりそうな(9月の)夜だった。
 さっき救命のひとにタバコを吸ってもいいかと聞いた女のひとに話しかけられてもマッシュのイケメンは無視を決め込んでいた。髪で隠れて顔は見えなかった(それでもイケメンなのだとわかるのがイケメン)。
 ふんと鼻を鳴らした女のひとは別にどうでもいいわの顔になった。知らんわの顔でもうひとりのイケオジとイケメンのあいだくらいの年齢の男のほうに尻をすっと移動させた。
「ね。おなかすかない?」
「うん」
「すいたよね?」
「うん」
「どっちだよ」
 女が黙ると救急車ごと夜の中に沈んだみたいに静かになった。
「うちらなんもしてないよね?」
「うん」
「悪いこととかしたことにならないよね?」
「うん?」
 スマホをいじりながら仕事のメールかなにかの返信をしていたハイボールがそこでようやく顔をあげた。貧乏揺すりしながら親指の爪をガシガシ噛んでいる女のひとの顔を見つめた。たすき掛けにした白いてろてろした布に「ハイボール」とふざけた文字で書いてあった。
「病院のあと警察だって」
「ああ」
 そんなことか。この女。何回説明させる気だ。やってらんないわの顔を女に向けた。
「鈴木」
「うん」
「佐々木がいなくなったのって。最初の救急車が来る前? 来たあと?」
「来る前」
「だよね」
「でも配信観てたひとたちが」
「5人もいなかったじゃん。ぐだぐだのオフ会だったし」
「そうだけど」
「最後まで観てたのちゅんちゅんくらいだよ」
「そうなんだけど。あれってあれじゃん?」
「あれってどれよ」
「死んでたじゃん」
 しーっの指を立てた。ハイボールの顔が悪いひとの顔になった。
「ごめん」
「鈴木はめんどくさいのとめんどくさくないのどっちがいい?」
 なにを言ってるのかわからないの顔で鈴木は黙ってハイボールの横顔を見つめていた。その顔が徐々になにを言ってるのかわかったけどわかったとは言いたくない(認めたくない)の顔になった。
 いまはなんでか知らないけど。なにを言ってるのかわからない。知らないひとたちの中にいるほうが安心した。わたしを乗せた救急車に乗らなくて正解だった。

 モスバーガー(江ノ島店)の前を通過した。きのう朝活したとき3連勤とかありえないとか死ぬとか言ってたから明日実(あすみ)がバイト中かもしれない。思ったときには通過していた。
 明日実は朝からゾンビみたいに肩を落としていた。バイトのシフトを入れる自分とバイトに行く自分は完全に別人格で。学校が始まる前に稼がなきゃ。コロナが終わったら韓国行きたいし。欲しいスニーカーもあるし。よーしがんばるぞーって思うのは勝手だけど働くほうの身にもなって欲しい。バイトのシフトをめちゃんこ入れた自分への恨み節がとまらなかった。
 明日実とは幼稚園のときからずっと一緒で。小学校も中学校も同じ学校(片瀬)だった。人生の大半の時間を一緒に過ごしてきたひとと別々の高校に通うことになった(去年の4月のかなしみよ)。
 いきなりコロナで休校になった。ひまになった朝の時間を有効活用するために始めた朝活が明日実と会って近況報告をするための時間になった。
 3日連続と言っていたからあした行けば普通に会えるかもしれない。てか会おうと思えばいつでも会える。そう思ってからなんとなく明日実に会うのを遠慮している自分に気づいた。
 なんかずっとそんな感じだった。特に見たいというわけではなくて。見たくないものを見ないために見ている。自覚はあった。
 ぴんぴんしているひとだけを乗せた救急車は申し訳なさそうにゆるゆると赤信号を通過した。光輝くんの意識は戻っていたからぜんぜん急ぎではなかった。サイレンは鳴らさずに赤いランプを空回りさせていた。
 一風堂が2階にある建物の手前の交差点(片瀬東浜)を左折した。ちょっと行った先に明日実の家の白いマンションが見えてくる。ゆるやかな坂道を救急車が登りきるまで見送った。
 うしろはただ暗いだけの海で。穴があいたみたいになにも見えなかった。

 河川敷の公園を散歩していたコーギーの頭をなでなでしたら吠えられた。驚いたのはわたしじゃなくて飼い主のおじいちゃんだった。芝生を走りまわっている子供が近づいてきたわけでもほかの犬に吠えられたわけでもないのに犬が吠えたのだから当然だった。
 わたしはそのとき電車(たぶん湘南台駅から出ている相鉄線)の橋の下からゆるゆるゆるゆると南に向かって流れてきた空気だった。日当たりのいい公園で過ごす家族やまだ告白してもされてもいない恋人未満の恋人たち(お互い「いい感じのひと」と思っていて、思われていることもぶっちゃけ気づいているひとたち)を眺めながらのんきに吹いてた風だった。
 トンビみたいに風を受けて空を舞っているわたしも風で。風の中の風で。姿は見えない。誰にも見えない。わたしにも見えない。地上数メートルの高さを流れる空気(窒素が8割、酸素が2割で、あと水蒸気とかでできた気体)だった(化学のテストのために暗記した)。

 わたしを知ってるひとがいなくて前に行ったことがある場所といったらここ(境川遊水地公園)くらいしか思いつかなかった。コロナが流行してからキャンプにハマった父親の車で遊びに来たことがあった。
 テントを組み立ててキャンプの予行練習をしてたら警備のおじいちゃんに叱られた。杭みたいなやつを地面に刺してないからいいじゃないか。ひとが多くなったら撤収すると粘る父親を「風で飛ぶから逆に危険」のひとことで論破した。
 こういうときはやさしいひとのほうが勝ちだった。話しているうちにだんだん声がおおきくなって怒鳴るみたいにしか話せなくなった父親の負けだった。
 言えば一緒に片付けをしてくれそうなくらいやさしかったその警備のおじいちゃんの姿は見えなかった。ゴルフ場にすることができるくらい長くてひろい公園を端から端まで(風の中の風で)飛んでみたけどいなかった。

 知ってるひとがいない場所は知ってるひとがいない場所以上のものでも以下のものでもない。ただの場所だった。
 ならば知ってるひとをつくればいい。だんだん涼しくなって遊びに来るひとも増えてきた河川敷の公園でずっと過ごすようになった。
 1週間通いつづけても「知ってるひと」はできなかった。人間の中に見つけることはできなかったけど「イソちゃん」と呼ぶようになったイソヒヨドリ(するっとしたシルエットの灰色のメス)はいつ来てもいた。
 河川敷の横の畑の上とか。雑木林の木と木(枝と枝)のあいだとか。意味なく橋の下をくぐるとか。ビニールハウスの屋根のすれすれのところを飛ぶとか。イソちゃん師匠と一緒に遊んでるうちにだいぶ自由に飛べるようになった(注意:わたしは鳥ではなくて風です)。

 夜はドバトの中のドバトになった。なにをするにも一緒で。飛んでいけばかならずあとから飛んできてくれる。追ってきてくれるおしどり夫婦のドバトのおなかの下で眠った。
 コンクリートでできた電車の橋と脚のあいだにちょうどドバトが入れるくらいの隙間があって。そこで明治のアーモンドチョコみたいにまるくなって。ドバトはドバトの中で眠るのだった。
 横になって眠りたいときは枯れて倒れた木の中で眠った。樹皮の内側は空洞だらけで。シジュウカラやヤマネも虫を食べにきたし。カブトムシやスズメバチも普通にいた(ゴキブリだけはまじで勘弁だった)。 
 目がだんだん慣れてきて。倒れた木の中で暮らしているまだ芽が出たばかりのキノコの赤ちゃんやコケがコケになる前のふわふわした糸みたいな集団や水の中だと緑色に透けて見えるうねうねしたミミズみたいなひとまで見えるようになった。
 みたいじゃなくて本物のミミズ様は電車くらい長くて。おおきくて。土の中の物ならなんでもかんでも食べちゃうひとで。ダンゴムシなんてゴジラみたいで。枯れた葉っぱや折れた枝が建物の町を踏みつけめちゃくちゃにする破壊神だった。

 その年の秋は寒かった。一段抜かしで夏から一気に冬みたいになった。
 空を眺めていたらわからない。雲がなければなおさら見えない。犬の頭をなでてもなでたことにならないくらいやさしい風でも枯れたススキは頭を盛大に揺らす。光と風と夢の中でぼーっとしていた隣りのススキにしなだれかかって。風の中の風が波になりサーフィンをする。
 夏の青々とした草が枯れて。こんもりとしたススキの村だけが池のまん中や川の中洲に残った。アオサギとかダイサギとか(チュウサギとかコサギとか)。顔が黒くてくちばしが白いオオバンとか。いくらなんでもくちばしが長過ぎるタシギとか。水辺の野鳥を見るために人間たちが双眼鏡片手に河川敷に来るようになった(鳥の名前は「野鳥と仲良くしましょう」的な案内板を見て勉強した)。
 足の生えたビルが工事中の布の囲いをしたままぞろぞろ歩いてきたように見えた。ヘルメットを被ってサングラスをした自転車のひとたちは15両編成の新幹線で。いやジェット機で。その大編隊で。駐車場に停められた車は巨人のサンダルだった。
 なのにイソちゃん師匠はわりと平気で。見上げると太陽の光がまぶしいタワマン(人間)の上から(手から)投げてもらったパンの切れ端を真顔のままうれしそうに頬張っていた。

 秋が終わるころにはなにもしなくなっていた。なにをするにしても時間があり過ぎるくらいあった。前なら長くても5分くらいあればし終わってたことを5日くらいかけてしても(しなくても)誰にもなにも言われなかった。わたしは枯れたオリーブの木として1日知らないひとの庭先に立っていた。
 日当たりのいいその家は河川敷の公園に向かう坂の途中に建っていた。2階のベランダの手摺りはイソちゃん師匠が昼間よくひとりで過ごしていた場所だった。
 渡り鳥でもないのにどこかに行ってしまった。なにも言わずにいなくなってしまった。イソちゃん師匠を探す方法が見つからなかった。
 小5のとき作文に「おとなになったらSEになってインターネットで検索すればすぐになにがどこにあるのか見つけられるシステムを構築したい」と書いたら明日実のおにいちゃん(湘南工科大学2年)に書いてもらったのが先生にバレた。
 でも言いたかったのはそういうことではなかった。ネットで検索したいわけではなかった。むしろ逆で。検索なんてしなくてもどこかで落とすか置き忘れるかしてきた(親にねだって買ってもらったばかりの)手袋のかたっぽが見つかる方法が知りたかった。
 いや。知りたかったのではなくて。欲しかったのは方法とかそういうのではなくて。自分がそうなりたかったわけでもできるようになりたかったわけでもなくて。誰でもそうすることができる。その誰でものひとりになりたかった。わたしのたったひとりの知ってるひと。イソちゃん師匠に会いたかった。

 中学のとき理科で角砂糖がコーヒーに溶けていく様子を観察する実験をした。角砂糖が溶けて見えなくなっても重さは変わらないとかまじでどうでもよかった。甘くなったコーヒーをアルコールランプで蒸発させて角砂糖を救い出すことだけを考えていた。

 またうとうとしていた。居眠りをしていた。夢を見ているうちに1週間とか1ヶ月とか平気で普通に過ぎていた。
 平気ではなかった。目が覚めてから普通にあせった。わりと毎回ちゃんとあせっているのにまたうとうとしていた。居眠りをしながら夢を見るみたいに海に行った日のことを思い出していた。
 小田急の江ノ島駅のすぐ近くに去年できたばかりのローソンで明日実と朝活の待ち合わせをした。2階に窓際のカウンターが白くてきれいな飲食スペースがあった。
 明日実は基本遅刻する。遅刻する前から遅刻するとわかっている。遅刻の中での遅刻だから気にもならない。先に買っておいたコーヒーを渡して。はいはい。わかったわかった。あとでパピコをおごってくれるのね。そうだね。確かにアレだね。指輪だね。いま明日実が上がってきたばかりの階段を降りた。
 ローソンを出たらすぐ海だった。波の音は聞こえなかった。ヤシの木が邪魔で見えないけど。見てはいないけど見えた気がしたわたしが横断歩道を渡りながら海だ海だと騒いでいると明日実はいつも意地悪なことを言った。
 きのうの夜のうちに海がなくなっていたらどうするとか。どうするもなにも。海が海じゃなくなっても朝活しに来ますかとか。なにもないように見えるけど宇宙はなにもないわけではないですからねとか。理系の明日美の意味がよくわからない話を聞きながら座ってコーヒーが飲める場所を探した。
 水色の木のベンチがあいていたら声が出るくらいラッキーだった。よーいどんで競争になった。芝生の丘を駈けてのぼった。
 きょうはあんまし風がないねとか。嘘。吹いてるよ。ほら。風でいまコーヒーの蓋が飛んだし。ぜんぜん吹いてるしとかおしゃべりしながらなんとなく砂糖を入れずに飲んだらブラックでコーヒーが飲めるようになった。おいしいってなった。
 だからなんだっていう話で。わたしの話はいつも全部そんな話で。いつのまにかわたしはまたうとうとしていたみたいで。居眠りをしているうちに普通に半年とか過ぎていた。
 明日実はそのまま朝までだって普通に起きていられる。話していられるひとだった。たのしいのに。たのしかったのに。寝落ちするのはいつもわたしだった。
 たのしいという気持ちはたのしいという気持ちの中でしか生まれないしつづかない。コーヒーの中に溶けた角砂糖が溶ける前から甘いみたいに最初からたのしかったわけではなくて。コーヒーの中でコーヒーで。たのしいはたのしいをブラックで飲む。
 土は土だ。土が土を触って手が汚れたとかきたないとか思わないように。なんでかなしいのか自分でもかわからないのにかなしいとき。かなしいは自分がかなしいことも忘れている。コーヒーをブラックで飲むのが当たり前のおとながブラックとは思わずに飲んでるみたいに。アオサギは自分がアオサギであることを知らないまま飛んでいる。あんなに羽がひろくておおきいのにおおきいともひろいとも思わずに。小柄の水鳥のすぐ隣りに舞い降りる。
 でもあれだ。さみしいだけは違った。違う気がする。さみしいは自分がさみしいことをわかっている。わかっているからこそのさみしさだから。さみしいだけはさみしいの中にいなくてもさみしい。ひとりでいてもさみしい。みんなといてもさみしい。さみしいはさみしい。

 凜。明日実の声が聞こえた。普通に聞こえた。呼ばれた気がして目が覚めたら夏だった。もうすぐまた秋になる。早いものであれからもう1年がたつのかと思っていたら夏で。それもいきなり再来年の夏で。次に目が覚めたら河川敷のサクラが満開だった。

 ビルの2階にある鳥貴族(湘南台西口店)のレジにバイトの新人の女の子が立たされたみたいに立っていた。現金チェックがすんなり終わらなかった。誤差が出たのはその子のせいではなかった。でも誰かのせいにはしたくなかった。ぴったり合ってて欲しかった。深呼吸してからもう1度千円札の数をかぞえた。その子の真新しい制服(黒いTシャツ)の袖にサクラの花びらがついていた。

 東口のバスのロータリーにミニクーパーのオープンカーが停まった。サングラスを掛けたままバックミラーの角度の調整をしていた(ボリュームのある生成りのストールを(いい感じに)首に巻いた)アラフィフの女が(花粉症のひとなら花粉症だとすぐにわかる)くしゃみをした。河川敷から風が運んできたのはサクラの花びらだけではなかった。庄やのビルの真上に月が出ていた。

 湘南台駅の地下にある催事スペースのさみしいはグランドピアノをひとつ置いたところでどうにかなるものではなかった。ひまでうろちょろしていたドバトがたまには飛んでみるかとばかりに改札を通過した。エスカレーターを駈けてのぼったちょうどのタイミングで来た通勤快速に飛び乗ったのは藤沢まで漫画の新刊を買いに行く(水色のメガネを掛けた)小学生の女の子だった。

 スピードを上げた小田急線の右側のどの窓からも肩まで雪をかぶった富士山の左に落ちる夕日が見えた。低いビルやマンションのぶんぶんチョッパーで切られた夕日の断面から溶け出した飴色の光がまたぶんぶん切られた。水色のメガネの女の子は富士山も夕日も見ずに赤い座席のまん中で呪術の復習をしていた(25巻を読みふけっていた)。

 光輝くんとはまだ付き合ってはいなかった。箱根でロープウェイに乗ったり芦ノ湖で船に乗ったり。いちにち観光をした帰りだった。湖畔の鳥居の下で映える写真を撮ったり縁結びの龍の神社に行ったりして。なんかちょっといい感じだった。なんかちょっといい感じのひとがいると明日実に報告したかった。

 ファミマ(片瀬江ノ島駅前店)の前にある赤いポストをテーブルにしてたこ焼きを食べていた外国人のカップルが話に夢中になってたこ焼きを舟ごと落とした。チャンスがあればいつでも盗むつもりで見ていたハシボソガラスが竜宮城(片瀬江ノ島駅)の屋根の上から落ちたたこ焼きの行方を見守っていた。

 海に向かう道の右脇にあった自転車置き場が全部自転車置き場でなくなっていた(置くとハンドルが絡み合いペダルが邪魔で取り出すのがひと苦労だったから異論はなかった)。去年できたばかりのローソンはまだあった(けどもう去年ではなかった)。2階の飲食スペースは封鎖されていた(コロナのあいだに立ち入り禁止になっていた)。

 横断歩道の向こうにヤシの木が生えていた。ヤシの木が生えている。そう思って見たことがなかった。ヤシの木のもじゃもじゃした頭が空の高いところで揺れていた。海はすぐに見えなかった。すぐに見えると思っていた。海はすぐには見えなかった。見えたときは見えたとも思わずに見ていた。海とも思わずに見ていた。
 

(『わたしを見つけて』10)

著者:横田創
校正:矢木月菜
装丁・組版:中村圭佑(IG /TW
WEB:橋本忠勝(リブアーク
編集:竹田信弥
発行:双子のライオン堂